北軽井沢ブルーベリーYGH
吉田松陰

ブルーベリーの名称 マネージャー日記 運営スタイル 経営方針
サービスについて 旅人の視点 旅と旅行の違い 設立のきっかけ
通りすぎた風 宿主の視点 ユースホステル論 リヒャルト・シルマン
■設立のきっかけ

01.決意
02.吉田松陰
03.松下村塾とは?
04.平成の松下村塾
05.物件さがし
06.JYHへ
07.信州へ
08.北海道へ
09.軽井沢へ
10.ペンションみつけた
11.資金繰り
12.ユースホステルは断念
13.購入
14.賃貸か?営業か?
15.開業
16.大赤字
17.倒産の悪夢
18.税理士を雇う
19.再びJYHへ
20.群馬県協会へ
21.ホームページ
22.営業
23.オーナー交代
24.高原へいらっしゃい

吉田松陰

ここで吉田松陰について少しだけ説明します。

 幕末(江戸時代末期)、西欧諸国による植民地支配が進み、世界中の有色人種が、白人の奴隷にされつつある時代。その時代に吉田松陰は、二度にわたって大罪を犯しました。
 一度目は、友だちとの約束のために家録を失い浪人となりました。

ペリー 二度目は、開国を迫ってきたペリーに、アメリカに連れて行ってもらえるように願い、牢獄に入れられました。当時の法律では、海外旅行は死罪にあたりました。まさに絶望的な状況だったわけです。

 吉田松陰と言う人は、日本の運命を変えてしまった人です。しかしながらその人は、政治家でもなく、軍人でもなく、学者でもなかった。囚人でした。しかし、その囚人が日本の運命を変えてしまったと言ったら信じられますか? 信じるとしたら、どのようにして、牢獄の中から日本の運命を変えてしまったと思いますか?

 松陰が入獄した牢獄は、野山獄と言いました。ここの罪人たちは、ほとんどが殺人傷害の前歴を持ち、何犯も重ねている重罪人たちばかりでした。そういう人たちのことですから人間として欠陥(短所)が大きい人たちだったわけです。ところが松陰は、これらの重罪人たちの欠陥を全く見ようとはしませんでした。

 重罪人たちの中には、書の名人や、俳句の名人や、盆栽の名人など、いろいろな特技を持った人がいました。松陰は、それらの重罪人たちに次々と弟子入りしてしまった。

 例えば富永弥兵衛という罪人は、気難しい偏屈な人だったのですが、とても書が上手でした。松陰は、この富永弥兵衛という気難しい偏屈な罪人に教えを請いました。
 最初は嫌がっていた富永弥兵衛でしたが、あまりの熱心さに、松陰の書に朱入れをするようになり、松陰は、富永弥兵衛にうやうやしく師事しました。そして獄中の他の罪人たちにも書を学ぶことを勧めました。やがて、重罪人たちは皆、松陰のごとく富永弥兵衛から書を学ぶようになり、獄中の者たちが「富永先生、富永先生」と呼ぶようになりました。

 その時の富永弥兵衛の感動は、彼の人生を左右するほど大きかったようです。親類縁者、世間、誰からも嫌われ疎まれた富永弥兵衛が、松陰や獄中の重罪人たちから「富永先生」と慕われたのです。こうなると偏屈な富永弥兵衛も、日を追うごとに先生らしくなり、やがては聖人か高僧のような人間に変わっていくのですから不思議なものです。

吉田松陰 このようにして吉田松陰は、獄の重罪人たちの長所を次々と発見していき、その長所にあやかって師事をし、
「☆☆先生」
「★★先生」
と呼び親しみ、その長所を自分の身にしていったのです。虫ケラ扱いされてきた罪人たちが、松陰に他の者に師と仰がれる。彼らは驚喜しました。牢獄のすべての罪人たちが先生になり、そして生徒になり、お互いが学び合い教え合い、そして、お互いの人格を高めあいました。やがて門番さえも授業に加わり、獄の最高責任者までも獄中の講義を聴講するようになりました。そして、いつの間にか、松陰を閉じこめた獄は、日本史を変えるほどの塾に発展していくのです。

 このような牢獄が、科学技術の発達した現代に、裕福で生活に困らぬ現代に、存在するでしょうか? 牢獄とは言いません。学校でもいいです。重罪人たちの人格さえも変えてしまうほどの学校が、この広い日本の、いや世界の、何処にあるのでしょうか?

 しかも、吉田松陰は、これらの重罪人たちを釈放するように、父や兄を通じて藩に働きかけ、ほとんどの重罪人たちを釈放してしまうという事まで、やってのけました。しかも、吉田松陰は、それらの重罪人たちに松下村塾(吉田松陰が開いた塾)の教授にしたのですから驚きます。重罪人たちを教育者にしてしまった例は、古今東西聞いた事がありません。
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