北軽井沢ブルーベリーYGH
松下村塾とは?

ブルーベリーの名称 マネージャー日記 運営スタイル 経営方針
サービスについて 旅人の視点 旅と旅行の違い 設立のきっかけ
通りすぎた風 宿主の視点 ユースホステル論 リヒャルト・シルマン
■設立のきっかけ

01.決意
02.吉田松陰
03.松下村塾とは?
04.平成の松下村塾
05.物件さがし
06.JYHへ
07.信州へ
08.北海道へ
09.軽井沢へ
10.ペンションみつけた
11.資金繰り
12.ユースホステルは断念
13.購入
14.賃貸か?営業か?
15.開業
16.大赤字
17.倒産の悪夢
18.税理士を雇う
19.再びJYHへ
20.群馬県協会へ
21.ホームページ
22.営業
23.オーナー交代
24.高原へいらっしゃい

松下村塾とは?


 吉田松陰。彼は、いったいどんな人物だったのでしょうか?

 彼は、松下村塾という塾を開きましたが、教師として塾生の上に立つのを拒み、入塾する青少年たちに「一緒におのれを磨こう」と言いました。もちろん松陰は教師でした。しかし、彼は教育家としては、致命的な欠点がありました。教育者の使命は、卵を孵化(ふか)させ雛(ひな)に変え、これを養って鶏まで成長させることです。しかし、松陰は

 卵は卵のままに生かす
 雛は雛のままに生かす

 彼は、卵を集め、雛を集め、集まった卵と雛でおのれを磨こうとしました。松陰は、どうして松下村塾を開いたか? それは己を生かしてくれる人材を得んためです。だから彼は弟子をとっていません。彼の眼中に師弟はありませんでした。ただ友情のみがありました。彼は、雪のアルプスを登る旅人のような存在でした。寒さや辛さをしのぐために、お互いに抱き合って、お互いの体温によって、その疲れをしのぐ旅人のようでした。

 その期間は、たったの二年半。たったの八畳のボロ小屋。しかし、この小さな小屋から日本をひっくり返す人材が、ことごとく現れたのです。孵化前の卵。よちよち歩きの雛を、生かすことによって・・・・。

 松下村塾は学校でした。幕末に何万とあった寺子屋(塾)の一つでした。但し普通の塾と違っていました。勉強させる塾でなく、生き方を発見させる塾だったのです。

 卵は卵のままに生かす
 雛は雛のままに生かす

という塾だったのでした。これを宿業に、現代教育に、会社の事態に当てはめてみましょう。はたして、どんな世界が生まれるでしょうか? 私は、もし吉田松陰が、この現代に生きていたら、どのような塾を作っていたか大いに興味があります。私も、いろいろな旅人や青少年といった卵や雛たちに自分自身を磨いみたいという誘惑にかられます。そして雪のアルプスを登る旅人のように、寒さや辛さをしのぐために、お互いに抱き合って、互いの体温によって、呼吸を保ちたいと思うことがあります。
《つづく》

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