北軽井沢を愛する全国の皆さん
ユースホステルを愛する全国の皆さん
2008年も、あと1日を切りました。
今日は、皆さんに、
勝ち負けを超越した話を紹介します。
オリンピックの男子マラソンでもっとも遅かった公式記録は、
54年8ヶ月6日5時間32分20秒3。
日本人の金栗四三氏が記録したものです。
金栗四三氏は、1911年(明治44年)、マラソンの予選会で
当時の世界記録を27分も縮める大記録を出し、短距離の三島弥彦と共に
日本人初のオリンピック選手となります。
翌1912年(明治45年)のオリンピックでは、レース途中で日射病で意識を失って倒れ、近くの農家で介抱されます。その農家で目を覚ましたのは、既に競技も終わった翌日の朝でした。しかしながら、連絡ミスによって「棄権」の報告が伝わらずに、「行方不明」という扱いになりました。
当時、日本からスウェーデンへ20日もかけての船と列車の旅で、さらに、スウェーデンの夜は明るいため、睡眠にも支障がありました。食事面では、当時はスウェーデンでは米はありませんでした。
その上、マラソンの当日は、金栗を迎えに来るはずの車が来ず、競技場まで走らなければいけませんでした。また、40℃という記録的な暑さで、参加者68名中、およそ半分が途中棄権し、1名は倒れた上、翌日亡くなったと言われています。
その後、金栗四三氏は、日本のマラソンの発展に尽力します。ストックホルムでの敗因を分析、考え出した真夏の房総海岸での耐熱練習、心肺機能の充実をはかる富士登山競争、高地トレーニング、そして、孤独な長距離の練習をチームでやろうという箱根駅伝の企画、さらには、女子体育の奨励など、現在のマラソン界につながるあらゆる試みが金栗四三の発案でなされました。
その後マラソンの父と称えられた彼の、唯一心残りだったことはオリンピックの棄権でしたが、晩年にオリンピック委員会からスウェーデン・オリンピック記念行事の招待が届きます。
「あなたはマラソン競技で行方不明になったままですので、ゴールしに来てください」
1967年(昭和42年)3月、スウェーデンのオリンピック委員会から、ストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典に招待されます。ストックホルムオリンピックでは棄権の意志がオリンピック委員会に伝わっておらず「競技中に失踪し行方不明」として扱われていました。
記念式典の開催に当たって当時の記録を調べていたオリンピック委員会がこれに気付き、金栗を記念式典でゴールさせることにしたのです。招待を受けた金栗はストックホルムへ赴き、競技場内に用意されたゴールテープを切りました。
オリンピックの記録には「棄権」はあっても、「行方不明」は無いための処置でした。その粋なはからいに応え、スーツ、ネクタイ、コートといういでたちでゴールを果たします。
75歳でした。
ゴールを果たした瞬間、
「日本の金栗がただ今ゴール。タイムは54年8ヶ月6日5時間32分20秒3…。これで第5回ストックホルム大会の全日程は終わりました」とアナウンスされました。
金栗は
「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とコメントしました。
人生は長い旅。
その間の勝ち負けなんてものは、
一瞬の、まばたきのようなものです。
大切なものは、
もっと他のところにあるのではないでしょうか?
では、良いお年を!
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