登山ハイキング
芝桜公園に行ってきました
丘全体に、ピンク、紫、白のお花畑が広がっている光景は、パンフレットで見ていらい、いつか見に行きたい! と、思っていました。お天気も良い今日は、絶好の取材日よりです。
けっこうな山道をひた走ると、菜の花畑の奥にあざやかなピンク色が見えてきます。ピークを過ぎたとはいえ、まだまだ美しいお花畑が丘全体に広がっていました。
芝桜は、背丈の低いかわいい花です。雑草を駆除し、地面を這うようにどんどん増えるので、よく庭に植えられているのを目にします。 それにしても、これだけの群生を見るのは初めてです。 丘は、白、ピンク、紫、などなど芝桜の色ごとに縞模様になっていたり、うずまき模様になっています。これは、「織姫が置き忘れた桃色のはごろも」をイメージしてデザイン化されています。近寄ってみると、名前の通り桜にも似たハート型の小花が風に揺れている様子は、着物の模様のようです。
植物で庭をデザインするというと、「ポラーノの広場」を思い出します。 岩手県の花巻市には「宮沢賢治記念館」があるのですが、そこには、宮沢賢治が理想郷を思い描いてデザインした「ポラーノの広場」という庭園があるのです。
小説にもなっている、「ポラーノの広場」とは、つめくさの花の数を数えてゆくと見つかるという幻の広場です。
私には、つめくさの花のイメージが、小さな芝桜のイメージと重なって見えました。芝桜の甘い香りの中でじっとしていると、賢治のたどった理想郷がこの芝桜の絨毯の中にあるように思えてくるのです。
「つめくさの花の かおる夜は ポランの広場の 夏まつり ポランの広場の 夏のまつり 酒くせのわるい 山猫が 黄いろのシャツで 出かけてくると ポランの広場に 雨がふる ポランの広場に 雨が落ちる。」
宮沢賢治「ポラーノの広場」より
芝桜公園に行ってきました
丘全体に、ピンク、紫、白のお花畑が広がっている光景は、パンフレットで見ていらい、いつか見に行きたい! と、思っていました。お天気も良い今日は、絶好の取材日よりです。
けっこうな山道をひた走ると、菜の花畑の奥にあざやかなピンク色が見えてきます。ピークを過ぎたとはいえ、まだまだ美しいお花畑が丘全体に広がっていました。
芝桜は、背丈の低いかわいい花です。雑草を駆除し、地面を這うようにどんどん増えるので、よく庭に植えられているのを目にします。 それにしても、これだけの群生を見るのは初めてです。 丘は、白、ピンク、紫、などなど芝桜の色ごとに縞模様になっていたり、うずまき模様になっています。これは、「織姫が置き忘れた桃色のはごろも」をイメージしてデザイン化されています。近寄ってみると、名前の通り桜にも似たハート型の小花が風に揺れている様子は、着物の模様のようです。
植物で庭をデザインするというと、「ポラーノの広場」を思い出します。 岩手県の花巻市には「宮沢賢治記念館」があるのですが、そこには、宮沢賢治が理想郷を思い描いてデザインした「ポラーノの広場」という庭園があるのです。
小説にもなっている、「ポラーノの広場」とは、つめくさの花の数を数えてゆくと見つかるという幻の広場です。
私には、つめくさの花のイメージが、小さな芝桜のイメージと重なって見えました。芝桜の甘い香りの中でじっとしていると、賢治のたどった理想郷がこの芝桜の絨毯の中にあるように思えてくるのです。
「つめくさの花の かおる夜は ポランの広場の 夏まつり ポランの広場の 夏のまつり 酒くせのわるい 山猫が 黄いろのシャツで 出かけてくると ポランの広場に 雨がふる ポランの広場に 雨が落ちる。」
宮沢賢治「ポラーノの広場」より
リンドウと秋の庭園
先日の台風が、秋を連れてきたようです。 北軽井沢では昨晩、やっと台風が通り過ぎました。 台風一過の後は、星を見るのには絶好のチャンス。お客さんと一緒に、キャベツ畑の脇道に座り込んで、天の川観測会となりました。 久々の星空です。夏の忙しさのご褒美のように、一筋の流れ星が通り過ぎていきました。
翌日は狙い通りの美しい青空。浅間山も白根山もくっきりと見えます。 この空を見たらもうじっとしていられません。宿のスタッフみんなで、カメラを持って車に乗り込みます。 向かうのは、標高1800メートルの万座です。
さらに志賀高原方面に向かうと、日本離れした山々が姿を現します。
緑の草原が続く山々は、アルプスの少女ハイジが出て来そうです。
台風が、空気中のちりをすべて流し去ったようで、空の蒼さと山の緑がまぶしく光っています。 車を降りて、草原にちりばめられた紫色に近づいてみると、リンドウの群生です。まだ3分咲きといったところで、ソフトクリームのようにゆるやかならせんを描いたつぼみがたくさんついています。
「あー、あったー!」
自称「実オタク」の木の実好きなスタッフ、としさんが歓声を上げます。 リンドウの下には、たくさんのコケモモ、ガンコウラン、ブルーベリーが広がっていました。よく見ると、コケモモは3ミリほどの赤い実をつけています。
これらの低木は、花の頃も素晴らしいのですが、実をつける頃がまた楽しいのです。一つだけ、口に入れるとほのかな甘みと酸っぱさが広がりました。 また、赤く紅葉したブルーベリーの葉も、微妙な色の変化に心を動かされます。
はじめは、山の全体を見て感動していたのですが、そのうち、地面や道の端までも全て繊細な美しさで占められていることに気づきます。
リンドウやススキ、色づきはじめたナナカマドも加わって、地表は秋を集めた庭園のようです。 私達は、曲がり角を曲がる度に
「うわー」「おおー」
と、いうボキャブラリーの乏しい歓声をあげることになります。 流れ星を見たときも、あんなに美しいものを見ているのにもかかわらず、それに見合った表現が見つからないのです。言葉とは難しいものですね。
今日行った中で、最も好きな風景は、国道最高地点から見下ろす芳が平でした。山に囲まれた谷底に蒼い湖と、登山道、赤い屋根の山小屋があり、まるで、絵本の世界が実写になって姿を現したようです。
私の好きな映画、「ロード・オブ・ザ・リング」に出てくる小さい人たちの村「ホビット庄」のようだと思いました。木陰で読書をしているフロドが見えるようです。
これから、万座をはじめとして、嬬恋村一帯に秋と紅葉がやってきます。 紅葉にはまだ早いですが、秋の訪れを全身に感じて、幸せな時間でした。
アサマベリーフィールズ フォーエバー 前編
「どうしてこの宿はブルーベリーって名前なのですか?」 という質問を、今までに私は通算168回ほどお客さんから受けています。
なぜブルーベリーなのか。 時々、身に覚えのない高額の請求書がうちに届き、 「なにっ?」 と、驚愕するのですが、よくよく見ると、「レストランブルーベリー」もしくは、「喫茶ブルーベリー」宛の別のお店への請求書だったりするほどブルーベリーという名前はこの地域ではポピュラーなのです。
この地域では、浅間ベリーと呼ばれる浅間山の山麓にしか生えない野生のブルーベリーがあります。アメリカ産の、大きくてやたらと甘いブルーベリーとは違って、粒は小粒でピリリと酸っぱい。人に媚びない野生の味がします。これが山麓を、カーペットの様に覆い尽くすのです。 小さく逞しく生きているアサマベリーを見ていると、この紫色の実に親近感が湧くのも分かる気がします。
そのアサマベリーが鈴なりになっている場所を、この秋、見つけてしまいました。 場所はちょっと秘密です。 まだ最近作られた山道を浅間山に向かって1、2時間ほど登ったところ、と言っておきましょう。 先日、晴れ間を見つけてその秘密の場所にハイキングへ行ってきました。
黄色く色づきはじめた山の斜面に、ナナカマドの赤い実がアクセントを添えています。ここは、夏、紫色のヤナギランが群生するのですが、今日は白い綿毛になってふわりふわりと風に舞っています。 その中に、不思議な色合いの蝶が飛んでいました。黒い枠の中に薄い水色のガラスを流し込んだ、ステンドグラスの様な羽を持っている蝶。
「これはアサギマダラだね」
この不思議な蝶は、見かけに似合わず苦労人で、東北から、関東、東海と渡って、果ては台湾までを往復するという暮らしをしています。たまたま南下の途中、ここのアザミの上で羽を休めていたようです。 まさに、蝶界の美しき旅人。 このふわふわした飛び方で日本縦断をしてきたなんて、想像もつきません。そのさりげなさが実にカッコイイじゃありませんか。
アサギマダラにサヨナラして石楠花と落葉松の生える斜面を登ってゆきます。 振り向くと、えんえんと続くキャベツ畑に四阿山。 その奥には、白い雪のストライプをまとった北アルプスが蜃気楼のように浮かんで見えます。 その時、変な声がしました。
「にゃー、にゃー、にゃー」
あれ? こんな所に猫がいる? それも、子猫の鳴き声です。 悲しそうな子猫の声はだんだんヒステリックになってゆきます。
「どこかの不届き者だ! こんな所に猫を捨てるなんて!」
そっと近づいていきます。が、子猫の姿は見えません。
「ちょっと待てよ。これはカモシカの子供だよ」
ダンナさんが言います。そう言われてみれば、猫ともちょっと違うような・・・。
「え! カモシカの子供!? みたいみたい」
私達はダンゴ状態になって、そっと鳴き声の元に近づきました。 すると、一羽の黒っぽい鳥が、スーッと私達の頭上から飛び立ち、その途端、鳴き声はピタッとやみました。
「やられた、ありゃ、ホシガラスだ」
ホシガラスという鳥は、体に白い星のような点々をつけているカラスです。 鳴きまねが上手い鳥は、同じカラスの仲間、カケスが有名ですが、ホシガラスにも、物マネの才能があったのですね。
「鳥も遊ぶのだなぁ」
というのは、新たな発見でした。
どう考えてもあのホシガラスは私達に聞こえるように鳴きまねをして、キョロキョロ探しはじめたころ、私達に見えるように飛んでいってしまったのですから。 何でそんなことをするのかと考えたら、やはり、私達は遊ばれたのだという結論に達しました。やはりここでは人間より自然の方が優位に立っています。
ところで、あのホシガラスがマネしていたのは、猫でしょうか、カモシカでしょうか? あんな山の中に野良猫がいるとも思えないので、きっとカモシカのマネでしょう。私はカモシカの声を聞いたことはありませんが、今後は、
「カラスがマネしたカモシカの声なら、聞いたことがある」
と自慢しようと思います。
アサマベリーフィールズ フォーエバー 後編
さらに進むと両側に茂っていた木が開け、ベリー類が地表に広がり始めました。 ラベンダー色に色づいたアサマベリー、明るい朱色のコケモモ、メントールの香りがするシラタマノキ、黒いガンコウランの実は、中に鮮血の様な赤い果汁を持っています。 紅葉も、花も、咲き始め、色の変わりはじめが私は好きなのですが、アサマベリーは今、まさに私好みの状態。まだ若い実と熟した実が隣り合って並んでいる色のグラデーションがたまらなくかわいいのです。
それまでのにぎやかさとはうって変わって、アリの目になった私達は、それぞれが、静かにじっとかがみ込んでベリーの魅力に釘付けです。
展望台には、夏に咲いたコマクサが一つだけ、ピンク色の花を残していました。ベリー達に主役を譲った高山植物の女王は、枯れても、凜としているように思えます。
木の実はやはり太陽が好きなようで、同じベリーが茂っていても、日影にはあまり実がついていません。 そこからさらに、遮るものの無い山の斜面へと登った時、私達はパニック状態となってしまいました。
そこは、山の斜面を覆い尽くしているベリーの草原でした。 草原のすべてにベリーが鈴なりになっているのです。 蒼い空に浅間山から上がる白い噴煙、緑の草原。 一緒にハイキングに行った若夫婦がまた、絵になること。
「ハイジとペーターみたいっ」 「ユキちゃんはどこ?」
私のような三十路女が発したらはり倒されそうなメルヘンチックな言葉も、ここではおおらかに許されてしまう場所なのでした。
ビートルズが作った曲で、 「ストロベリーフィールズ フォーエバー」 というのがあります。ストロベリーフィールズは、ジョン・レノンが昔よく遊びに行ったという孤児院の名前なのです。最近、その孤児院が閉鎖されてしまったと聞きました。 ジョンは、きっと野いちごが咲いていたであろうその孤児院を、特別な場所と感じていたことでしょう。
このベリーの草原は、私にとっての 「ストロベリーフィールズ」 になりそうです。
「永遠に今のままで」
と、祈らずにはいられません。
紅葉の谷
今日、芳が平に紅葉の様子を観に行ってきました。今年は去年に比べて紅葉が遅かったので油断していたのですが、標高2000メートルの芳が平は紅葉がピークを迎えていました。
中でも、今年のナナカマドの紅葉はすばらしく、山肌の所々に、小さな焚き火を起こしたように、真っ赤な葉と実をつけています。
芳が平は私の好きな場所の一つです。 山の上から見た芳が平は、笹の緑と、白樺の金色、ナナカマドの朱色に覆われた山々に囲まれています。谷底には蒼い湖と、赤い屋根の小さな山小屋がたたずんでいて、絵本の一ページのように、現実離れした美しさに満ちています。
今日は、その美しい湿原を訪れるのです。 湿原に至るまでの道が、また変化に富んでいます。 トルコの砂漠にあるような砂山が現れたかと思うと、孫悟空が生まれたような巨大な岩がゴロゴロしている場所もあります。そこにある木は、過酷な環境を過ごすうちに、ねじれ、折れ曲がり、ついには炭化して横たわっているもの、空を指したまま立ち枯れているもの、不思議な風景を作り出しています。
荒野のような風景を過ぎると、一面のススキ野原に出ます。日本人はなぜか、ススキの野原を見ると、「子連れ狼」を連想してしまいますね。 穂を出したススキが秋の光を反射して、そこら中が光の海になりました。
ススキの野原を過ぎると、突然に、絵本の風景が立ち現れます。たくさんの色があるのに、全体の調和を崩すものは何もありません。ハイキング途中の人達や、エサをねだりにやってきたカモの一家も、絵本の登場人物のように、風景に収まっています。
紅葉の風景は、とても優しいものです。 新緑の季節は、圧倒されるほどの生命力にあふれていた木々は、実をつけ、それぞれの種を生き延びさせる役目を果たし終えました。後はもう、赤くなった葉を落とすだけです。役目を終えた木々達の、ほっとした息づかいが聞こえてくるような気がするせいでしょうか。
錦秋を水面にうつし取った池をめぐって歩いてゆくと、金色の野原が現れました。無数の葦を照らし出した秋の光が、野原を金色に染めています。そんな風景の中に身をおいていると、自分の中に淀んでいたものが溶け出して、自分がからっぽになってゆくような心地よさを感じます。
四季のある日本に住んでいる特権を、くまなく行使した一日でした。 私にとっての特別の風景、特別の場所がまた一つ増えたようです。
風切る山と消えた集落
私の住んでいる嬬恋村から、北の空を仰ぐと、ナイフの刃のように鋭い崖を持った山が見えます。 「破風岳」(はふだけ)というこの山は、いつ見ても、凜とした風情があって好きな山です。隣の山は、鍋をさかさにしたような、「土鍋山」だとか、強風の為に木が生えない「毛無山」という、ほのぼの系の山であるので、破風岳の凛々しさが一層際だって見えるのです。
秋晴れのある日、憧れの破風岳にやっと登ることができました。 風の強い場所らしく、背の高い木はほとんどありません。浅間ベリーや、ガンコウラン、コケモモなどの低木が絨毯のように茂っています。
「破風って、屋根の切妻にある三角形の板のことを言うんだよね」
という、ダンナさんの解説よりも、
「やってくる風を山の刃で叩き切る」
という意味の方が、私にはしっくり来ます。 山の斜面にジグザグについた道をたどってゆくと、浅間山と周辺の山々が雲海の中に浮かんでいるのが見えました。白い雲は、泡立つ海のようです。蜃気楼のように浮かんだ蒼い山々は、近づいたら消えてしまいそうな神秘的な雰囲気を漂わせていました。
破風岳から見下ろす所に、小串鉱山があります。ここは、私が生まれる1年前、1971年に廃坑になってしまった硫黄鉱山の集落跡です。 こんな山奥に、最盛期は2000人もの人が住み、学校やスーパーや、遊園地までがあったというから驚きます。
今、目に映る風景は、草木も生えない土山と、集落があったはずの平地、半分崩れている山です。 昭和12年には、大規模の山崩れが起こり、245名もの方々が亡くなりました。
山崩れがきっかけで廃坑に追い込まれたのだと、私は思っていたのですが、その後も、小串鉱山は、事業を拡張しつづけ、昭和44年には、全国の硫黄生産の10パーセントを生産していたのです。 転んでもただでは起きないねばり強さは、200年前、浅間山が大爆発し、村のほとんどが溶岩に埋まったものの、土地に残って復興を遂げた嬬恋村村民独特のものでしょうか。
鉱山跡には、硫黄を運んだ鉄塔や、発電所などがぽつぽつと残ってはいますが、全ては時と共に風化し、土に帰りつつあります。今、鉱山跡を守る者は、天然記念物の日本カモシカだけとなりました。
破風岳の頂上に立つと、1999メートルという標識がありました。360度、見渡す限りの絶景です。遠くには、北アルプスの山並みが延々と続いています。 今までは、下から見上げているばかりだった破風岳の刃の上にいるんだ、と思うと髪の毛を逆立てている強風さえも、嬉しく感じられます。 崖から下を覗きこむと、紅葉に染まった谷が恐ろしく下の方に見えました。
雲海の中に取り残された小串鉱山に、商店街を建て、学校を建て、行き交う人達がいるところを想像してみるのですが、こんな荒っぽい土地の上に町があったとは、なかなか想像しがたいのです。
けれど、小串鉱山に住んでいた子供達の姿だったら、思い描くことができます。 学校の窓から、破風岳を見上げる子供の姿。山に登り、風にあおられ、ケンカしたり、笑ったりしている子供達が自分と重なって見えます。 以前、私は、鉱山跡を歩いたとき、錆だらけのエンピツ削りを見つけました。
この持ち主は今、どうしているのだろう?
エンピツ削りは、鉱山がにぎやかだった頃の記憶を染みこませたまま、ずっとそこにとどまっていたように思えます。
半分崩れた山が、山崩れの被害を物語っています。
犠牲になったのは鉱山で働いていた大人だけでなく、31名の児童も含まれていました。
山から下りてくると、誰が作ったのか、陽の当たる山の斜面に、石を並べて太陽の顔が描かれていました。 小串鉱山の子供達が残したメッセージのようで
「太陽だね」 「笑ってるね」
と、私達も笑顔になっていました。
今、宿のテーブルの上には、小串鉱山から持ち帰った硫黄の塊が乗っています。 それを見た水道工事のおじさんが、懐かしそうに言いました。
「これ、昔よく遊んだなぁ、昔は機関車で硫黄を運んでたんだ。それがこぼれると子供達が拾って歩いたもんだよ」
今の嬬恋村は硫黄とは無縁の生活となっていますが、数十年前は、硫黄がこの村を潤していたのです。 黄色い石に顔を近づけると、温泉の匂いと共に、硫黄に関わっていた人達の記憶が立ち上ってくるように思えました。
落ち葉のふる秋に
早朝。何かに呼ばれたような気がして裏庭のドアを開けると、木漏れ日の中で、落ち葉が音もなく散っていました。風もないのに無数の葉が光を受け止めながら落ちていく様子は、深夜のぼたん雪に似て、静けさが深まる気がします。
こんなに葉が落ちては、あっという間に秋が終わってしまう。
日に日に減りつつある自分の脳細胞を惜しむように、紅葉した葉が落ちるのを、何とかしてとめたい衝動に駆られます。 こんな日は、とっておきの場所に行きましょう。 穴場というほど大衆向けでもなく、秘密というほど閉じられてもいない。けれども、紅葉の時期には必ず訪れる場所があるのです。
とっておきの場所は、マイナーです。電車で行くには駅から離れすぎているし、車で行くにも場所が分かりづらい。周りには宿も、ペンションもありません。名前がまた地味で、地図には、 「大東文化大学セミナーハウス」 という名前しか載っていません。 そもそも、「なんとか山」とか、「なにがし高原」なんて名前さえないのです。 こんな所にあえて行こうと思うのは、大東文化大の教授か、生徒ぐらいのものでしょう。
「まったく、なんでこんな辺鄙な所に・・・。軽井沢の真ん中に建ててくれりゃ良かったのに」
という生徒のぼやきが聞こえて来そうです。
けれども、その全く人が入らなそうな場所が、毎年、素晴らしい紅葉の舞台となっているのです。
「紅葉は、人が行かない所ほど良い」
というのが、私の持論です。 北軽井沢に越してきて思ったことですが、看板が立っていて、ベンチの一つも置いてある所は、確かに、撮影スポットとしてはいいし、景色も素晴らしいです。 けれども、看板や、交通標識さえもほとんど無いような林道や、笹に覆われた古びた木道などを歩いていると、樹の勢いが違うのです。そんな道を見つけてしまうと、道を曲がる度に足をとめ、なんとかしてその生命力の一部だけでも写真に収めようとして、なかなか前に進めない事になります。
この、セミナーハウスは、そんな場所です。
パノラマラインというキャベツ畑の連なる道から6キロほど奥に入り、山に向かっていくと、行き止まりにセミナーハウスがあり、温泉も湧いています。 そこから、ガレガレの山道を5分ほど入っていくと、ススキとハハコグサの繁る草原に出ます。ここはちょうど、山の中腹のようになっていて、眼下を見れば、煙をあげる浅間山をバックに、キャベツ畑の連なりと色づいた山が見えます。 振りかえると、山の斜面はたくさんのダケカンバで埋められていて、金色に光る木々が、緑の笹の絨毯の上に、ほっこりと乗っています。どこからが葉で、どこまでが秋の光なのか、境目が曖昧なこの風景は、昔、美術館で見た宗教画の空の色に似ていました。 天使のひとりやふたり、飛んでいたかもしれません。
ダケカンバは、優しい木です。 新緑の頃は、パステルカラーに色づき、夏は青葉。秋は、紅葉と言っても、燃えるようなもみじの赤とは違って、ふわふわした金色に色づきます。冬が来て葉を落とすと、今度はほっそりした白い幹だけになるのですが、白い雪原に樹氷をまとった姿は、美しすぎて近寄りがたい女性のようです。遠くで見ているだけで、満たされてしまいます。
名もない場所ですが、ここは、本白根山へ昇るルートの登山口でもあります。 誰もいない登山道を登ってゆくと、紅葉した木々の中に、明るいライムグリーンの木がありました。周りが紅葉しているだけに、その緑はけっこう目立ちます。後で調べたところ、その木は、コシアブラでした。春に、葉を天ぷらにしたものをごちそうになっていたのに、全く気がつきませんでした。 この木の紅葉はちょっと変わっていて、色が変わるのではなく、色が抜けていくのです。数メートル先のコシアブラは、ライムグリーンの葉が所々に残ってはいるものの、漂白したように白くなっていました。これがコシアブラの紅葉した姿だそうで、「紅葉」ではなく、「白葉」と呼ぶそうです。紅葉といえば、赤か黄色だと思っていましたが、植物の個性はいろいろですね。
快調に進んではいるものの、だんだん道が急登になってきました。自然に足下ばかりを見て歩く格好になります。そのうち、道一杯に、バラの花びらが散らばっているのに気がつきました。
「こんな所にバラの花?」
と、思って見上げると、満天星(どうだん)ツツジが頭上に枝を広げていました。ドウダンツツジは、春に満天の星をちりばめたような、小さく白い花を一面につけます。その葉が赤く紅葉して、道にふりそそいでいたのでした。紅葉したドウダンツツジがバラとそっくりだなんて、初めて知った事です。ドウダンツツジの名付け親が、初めに紅葉した葉を見ていたら、違う名前を付けていたかもしれません。
今後の私の人生において、誰かが道々バラの花びらを撒いてくれる、なんてことは起こりそうにないので、ちょっと背筋をのばしてさくさくと歩いてみます。 つかの間の王女様気分。 まぁ、王女様はこんな坂道を、息をきらせて登ることはないでしょうが。
紅葉の谷を見下ろして一休みしていると、遠くでエンジンの音が聞こえてきました。その規則的な音はだんだんと近づいてきます。
「あれ? ヘリコプターだ!」
遊覧飛行のヘリコプターが飛んできたのです。ヘリはキャベツ畑の上を低く旋回したかと思うと、私達に向かってまっしぐらに向かってきます。
「ちょっと、こっちに来るよ!」 「早くカメラカメラ!」
運転手が見えるほど近づいたヘリコプターは紅葉の谷の真上をなめるように飛んでゆきます。
「シャッターチャーンス!!!」
しかし、こんな時にデジカメのスイッチが入っておらず、あっという間にヘリは飛んでいってしまいました。 紅葉とヘリコプターの写真が撮れるまたとない機会だったのに。この写真が撮れていれば、うちのスタッフである、ヘリパイロットのツチヤ君を悔しがらせることができたはず。あー、悔しい!
息も絶え絶えになった頃、「展望台」と名前がつきそうな見晴らしのいい場所にやっと到着しました。ここから見下ろす風景は、紅葉の幕の内弁当といった感じです。谷を挟んで左手には、落葉松林の黄色。右手には広葉樹の赤。奥にはキャベツ畑の緑がパッチワークのように並んでいます。蒼い山々に白い雲。お弁当も紅葉も、カラフルであればあるほど心が浮き立ちます。 目からご馳走をいただきながら食べるおむすびは、いつもより100倍おいしく感じました。 てっぺんから白い煙を出す浅間山を見ていると、浅間山が、湯飲みに見えてきて、あったかい日本茶が飲みたくなるのでした。
「はい。もう1時だから撤退ね」 「えー、せっかく登ったのに、もったいない・・・」
3時にはお客さんのチェックインが始まってしまうため、いつも私達、ミニ登山隊の活動時間は4時間ほどです。けれども、たった4時間で山頂まで行ける場所に住んでいるというのも、考えてみれば恵まれていることだなぁ、と思うのでした。
エスプレッソな山
秋も深まる10月のある日、私は小浅間山に登っていました。 去年の9月に起こった浅間山の噴火の為、入山を禁じられていたこの山は、今年の6月にやっと禁を解かれたのです。
ここ最近、私は、美しすぎる紅葉の山ばかりを見てきました。豪華絢爛な風景にはいつも感嘆とため息の連続でしたが、私は一方で、廃墟や火山、砂漠といった荒れた風景、人を寄せ付けない風景も大好きなのです。
シンプルで力強い風景は、ストレートに人を揺さぶります。
きれいなデコレーションケーキばかり食べていると、たまには顔をしかめるぐらいに苦いエスプレッソが欲しくなるようで、人間は、どこまでいっても満たされない動物なんだなぁ、と思います。
その、エスプレッソな風景がここにありました。
小浅間山のふもとに立つと、西部劇の舞台に紛れ込んだ錯覚に陥ります。 この辺りの紅葉は、カラマツをはじめとする黄色の黄葉が主なのですが、カーキ色の木々が、乾いた荒野を思わせるのです。 土と岩ばかりの地面には、マリモのような草が所々に生え、浅間山の山頂に続く登山道は、野生馬が似合いそうな一本道。岩山をかすめて飛ぶタカは、鳥葬された死体をめがけて飛んでくるハゲタカにも見えます。
「マルボロの一本でも、持ってくれば良かった」
などと思ってみても、タバコが飲めない私が齧っているのは、荒野に不釣り合いのシュークリーム。ああ、全く野暮ったい。
荒野の風景には男性が似合います。 それも、ちょっとくたびれかけた、いえ、苦労を積み重ねてきた軌跡が見える中年の男性。 いつもは
「醜いものは写さなくてよろしい」
と、決して写真に写ろうとしないダンナさんの後ろ姿が、一番この風景に似合っています。最近増えてきた白髪も、荒れ地の中ではなかなか映えます。
「よく見ると、クレーターがたくさんあるね」
「昨年、噴火が起こった」という事実を知らなければ見落としてしまう地面の穴。銃撃戦の跡地のようです。 石がぶつかった衝撃で、地中の根が掘り出されていることと、色の違う土が外に出ていることでクレーターだということが分かります。
昨年の9月1日の夜、目前にそびえ立つ浅間山から、無数の火山弾がこの荒れ地にふりそそぎました。 場所によっては、火のついた石が低木を焼き、下界からはその明かりが蛍火のようにまたたいて見えました。 浅間山から5キロ離れた所にいても、ごうごうと唸る山鳴りが恐ろしく感じましたが、もし、噴火直後に小浅間山にいたら、天地創造のような、ものすごい光景が見られたのではないでしょうか。
雲一つ無い青空に向かって、山頂を目指します。 荒野の果てには、軽井沢を見下ろす岩の砦がありました。 積み石の間に、セロファンで包まれた花束がひとつ、誰かに捧げるように差し込まれています。平べったい石の上には、お供え物の代わりの浅間ベリーがひとつかみ載っていました。
名もない人の名もないお墓。
この花束をささげられた人、ささげた人に想いを馳せながら浅間山を見上げると、初冠雪の山頂から、冬の白いため息が聞こえたような気がしました。
小浅間山の下山口には、東大の地震研究所があります。昔は常駐の研究員がいたそうですが、今は、データを送るばかりの無人の研究所です。 この庭で、天明3年の大噴火が起こった時の地層を見ることができます。
浅間山は、過去に何度も噴火を繰り返してきました。その時間の流れが地層の縞に込められています。この地層に触れた高校生が、
「江戸時代にさわっちゃった・・・」
と、つぶやいていましたが、この土が、江戸時代と現代を橋渡ししているのだと思うと、三十路を越えた私でも不思議な感覚に襲われます。
浅間山も、キャベツを育てている黒土も、ダケカンバの巨木も、何十年、何百年も前からここにあって、そして、これからもあり続けるのでしょう。
百年前にも、百年後にも、きっと私と同じように浅間山を見上げる人がいて、元気をもらうのだろうな、と思うと、なんだか温かい気持ちになるのでした。
風流人と200年のダケカンバ・前編
「源水の森に行ってみませんか?」
Iさんの奥さんから我が家に電話がありました。 秋晴れの、どこかに出かけたくてうずうずしていた午前9時のことです。
「いやー、今日は、お客さんがいるから・・・」
寝不足のダンナさんがぶつぶつとしゃべっています。
「そこに一抱えもあるようなダケカンバの巨木があるんだけどね。200年はたっている木なの。佐藤さん、まだ行ったことがないっておっしゃってたから・・・」
「い、行きます! 連れてってください!!」
Iさんも、痛い所をつく。ダンナさんが「まだ行ったことがない」場所に弱いことをよく知っているのです。 しめしめ、と思いながら私もさっそく準備開始。
ログビルダーのIさんの家に行くと、庭にツリーハウスが建っていました。二本の栗の木が大黒柱です。大黒柱といっても、生きている木にそのまま家をくっつけている状態なので、栗の木で家を作ったと言うより、栗の木に家をくっつけたような不思議な家です。 はしごを上ってテラスに立つと、メープルシロップ色の栗の葉が、さわさわと目の前で揺れています。数十年ぶりに木登りをしたような気分です。 家の中は、4畳ほどのスペースと、階段の上には、小さなロフトがありました。
「おお、これは・・・」
私は立ちつくしていました。
映画「スタンド・バイ・ミー」に出て来たツリーハウスではないですか! 少年達だけの秘密基地! 若くして急死したリバーフェニックスの笑顔が頭をよぎります。
誰もが一度は憧れるツリーハウスを本当に作ってしまうIさんは、なかなかのロマンチストです。
「風が吹くと木も家もよく揺れるよー」
と、Iさんが笑いながら言いました。
Iさんご夫婦の案内の下、まずは、バラギ高原の石樋(いしどい)に向かいます。 安山岩の岩肌の上を、澄んだ水が流れています。石でできた「樋」にたとえて、「石樋」と名付けられました。 下流の滝に降りてゆくと、山から流れてきた葉が、水面を綾錦に色づかせています。
「もう少し早い時期に来れば、大文字草がたくさん見られるよ」
Iさんは、岩の間から生えている緑の葉を指さしました。 この花はなんとも変わった花で、5つある花びらの2枚だけが長いのです。そのためこの花を正面から見ると「大」の文字に見えます。
滝が可憐な「大」の花で埋め尽くされる頃、また来てみたいと思いました。
滝の源流に向かって浅瀬の間を渡ってゆきます。清流の中、緑の苔をぬいながら、様々な色と形をした落ち葉が流れてゆきます。 なめらかで絶え間ない水の流れを見ていると、不思議と心地よいのです。
この感覚は何かに似ている。
そのおぼろげな感覚の行き着いた先は、車の運転でした。 一人で長時間運転を続けている時に、ふとやってくる、
「ずっとこのまま走り続けていたい」
という気持ちです。 どこかに向かってさらさらと流れていくこと。 その流れの中にあることの心地良さ。
昼食もとらずに走り続けてしまうライダーさんもきっとこの、「流れていたい病」にかかっているのだと思います。 流れていくことは、自分から余計なものを洗い流してくれます。 そして、何かに向かっている充実感があるのです。
風流人と200年のダケカンバ・後編
石樋の道が終わると、道は登りになりました。 両側は、シラカバ林です。ここはシラカバとダケカンバとウダイカンバという一見、同じに見える樺類が混在しています。 登りの道に、息もだんだん上がってきました。 下を向いて歩いていた私にIさんが言います。
「ほら、あれが200歳のダケカンバ」
そこには、曲がりながら天に向かう、クリーム色の巨木がありました。 大人3人が手を繋いでやっと抱えられるほどの太い幹。上り龍のようなその姿は、源流の森の長といった感じです。
木の周りをぐるっと回ると、ダケカンバには、フクロウでも住んでいそうな穴が空いています。 目をこらすと木の中は垂直の空洞になっているのでした。私は心配になり、Iさんに聞きました。
「この木、そのうち枯れるのでしょうか」 「中心は空洞だけど、木は周りから水を吸い上げるから、これくらいの厚さが残っていれば大丈夫。中をさわってみれば分かるよ」
私はおそるおそる暗い洞の中に手を入れました。ひんやりとした空気が流れています。内側の木肌に触れると、渓流に生えた苔のように水分を含んだ手触りを感じました。
「ほんとだ」 「春先はしずくが落ちてくるほど水を吸っているよ」
生きている木の内側をさわるなんて、めったにない機会です。200年という時の長さを考えると、ダケカンバのたくましさをより一層感じます。
「この近くに湧き水があるのよ」
Iさんの奥さんが落ち葉をかき分けながら言いました。 ダケカンバから5メートルほど離れた所に、湧き水があるのですが、雪解けから夏までの間だけ水が流れるらしく、今は枯れていました。湧き水の場所から、ダケカンバの巨木まで、水路の跡がついています。
「お、誰かここで風流な事をしたらしいな」
と、ダンナさんが竹で作られたひしゃくを拾い上げて言いました。 落ち葉の下には、ししおどしを作ったと思われる竹も、数本おいてあります。
「こ、これは・・・」
私はつぶやきました。
「風流人」の遺跡ではないですか。
風流人とは、日本では、全人口の0.1パーセントしかいないと言われている民族です。 平成以降は、風流人の減少が著しく、日本絶滅危機動物への登録が検討されています。
風流人は、日本全域に広く分布していますが、彼らは、野生動物のように痕跡しか残さないので、生存の確認は困難です。 一族が代々続く風流人家系の場合もありますが、多くは突然変異と趣味嗜好により、風流人となる場合がほとんどです。
「昨日作った雪だるまが、翌日には3体に増えていた」
「猛暑の続く夏の日、神社の狛犬がむぎわら帽子をかぶっていた」
などという事例は、まず間違いなく風流人のしわざです。 彼らは人知れず風流なことをしてしまうという性質を持っています。 誰かの評価を得ようとしているわけでもなく、自分のスタイルを人知れず実行する風流人は、なかなか奥ゆかしく、ユーモア精神にあふれています。
私は一度だけ、生身の風流人と遭遇したことがあります。 その人は、うちに泊まりに来た男性のライダーさんで、趣味は競馬ということでした。 その夜は、ギャンブルの話などして、翌日ライダーさんを送り出しました。 さて掃除を・・・と、私はライダーさんが泊まっていた部屋のドアを開けました。
「!?」
部屋の中には、色とりどりの風船で作ったプードルや、お花がたくさん飾られていたのです。 私は夢々しく並べられたバルーンアートの中で、思いました。
「ギャンブル好きのお兄さんの正体は風流人だったのか・・・」
話がそれましたね。
ダケカンバの巨木は、たしかに風流人が好みそうな風情がありました。風流人達は、ここでダケカンバを見上げながら、湧き水を沸かしてお茶をたて、ししおどしの音を楽しんだのでしょう。竹を割った樋があるところを見ると、もしかしたら、「流しそうめん」などもやっていたのかもしれません。
私もできることなら、その末席に加わりたかった。 ダケカンバの根本から水が湧きだす頃までには、私ももう少し、風流人となる努力をしたいと思います。
ダケカンバの森を抜けると、冬はスキー場になっている高台に出ます。そこからは、浅間山、蒼いバラギ湖、パッチワークのようなキャベツ畑の広大な風景が広がっていました。
「ここら辺でご飯にしようか!」
くるぶしほどの牧草地に腰を下ろしてみんなでランチです。 ゆうゆうと森を飛ぶタカを見ながらおしゃべりと食事を楽しんでいると、ああ、これも風流人的な楽しみだなぁ、と思えてきます。 浅間高原は、風流するのに最適な場所が、至る所にあるのです。
あさまやまスイッチ
下界から浅間山をよくよく見ると、火口に、小さなスイッチがついているのが分かります。 映画、「007は二度死ぬ」では、火山の火口がかぱっと開いて、敵の秘密基地が現れましたが、浅間山のスイッチを押したら一体何が起こるのでしょうか。
「あさまやまスイッチ『あ』」 と、押すと、嵐が起こったりするのでしょうか。 ・・・マイナーですいません。 それは、ピタゴラスイッチの「おとうさんスイッチ」です。
2004年の9月以降、浅間山スイッチは2つに増えました。1つ目のスイッチは、1950年の噴火の際に火口から飛び出してきた「千トン岩」と呼ばれる大岩です。実際には2千〜3千トンはあるそうです。 昨年火口から飛び出してきた2つ目のスイッチは、200〜300トンの岩なので、群馬大学の火山学の教授が、「100トン岩」と名付けました。
毎日浅間山を見上げていると思うこと。
「あの火口に付いているスイッチを押してみたい」
幼児のおもちゃには、よく、ボタンだの、スイッチだのがついていて、押すと「ピー」だの「ガガガ」だの「うさぎちゃん」だの「トラおさん」だのが出現したりします。 子供が、大人の携帯電話を奪って離さないのも、スイッチやら、ボタンといったものの持つ、
「押したらどうにかなってしまうのではないか」
という恐いような魅力に逆らえない為ではないでしょうか。
恥ずかしながら、私は今でも、スイッチがあったら押してみたくなり、包まれた箱があれば、開けてみたくなるタチです。小〜中学校の9年間は、ガラス板の奥にある火災報知器のスイッチを見るたびに、
「押したい」
という衝動と戦っていました。小学校で、やたらと非常ベルの誤作動が多かったのは、スイッチの誘惑に負けた小学生がたくさんいたせいなのではないかと思うのですが。
2005年の6月まで、噴火の影響で、浅間山の火口から4キロ以内は、立ち入り禁止となっていました。今は、山頂近くの前掛山までは、自己責任で登山できるようになっています。
秋晴れのある日、「あさまやまスイッチ」100トン岩を押しに行こうではないか! と、急遽、山登り隊が結成されました。
車山峠に車を置いて、出発です。 雲一つない空に、蜃気楼の様に浮かぶ北アルプスは、白い雪をかぶって輝いています。 足下には、無数の透明な霜柱が土を持ち上げています。まるで、水晶の埋まった鉱脈のようです。 秋にはたわわな実をつけていたブルーベリーの葉も、今は、細かな氷に縁取られて、冬の到来を告げています。繊細な樹氷の模様を見ていると、こんなに美しいものが、日々生まれては溶けていくことの不思議さを感じます。
木洩れ日の森が終わると、突然、目の前に浅間山が、どどんと立ちはだかりました。 チョコプリン型の浅間山のふもとには、既に黄葉を終え、眠りについたカラマツの森が白く広がっています。浅間山を取り囲む外輪山の崖は、あまりの高低差に、見ているだけで眩暈がしてきそうです。遠くの平地には、まだ黄金色に黄葉しているカラマツの森と、軽井沢の町が揺らいでいました。
そこからは、外輪山の刃の上を歩いてゆきます。 行く手の林の中で、何か重量のあるものが、のしっと動く気配がしました。 「あ」 飲み込んだ言葉の先に、雄のカモシカがいました。 崖のふちに立って、こちらをじっと見つめています。 その距離わずか3メートル。
カモシカは、シカとは言っても実は牛の仲間なので、山ではち合わせても、牛並みにぼーっとしています。その上、カメラ目線でこちらをじっと見つめるのです。天然記念物のわりに、ここらではよく姿を見かけますが、あの呑気さで生きていたら、天然記念物にでもしておかないと、あっという間に大量捕獲されてしまいそうです。
こちらの写真撮影が終わったのを見計らったかのように、カモシカはどすどすと音を立てながら、急斜面を降りていきました。フカフカに太った体と太い足に似合わず、あっという間に崖を駆け下りていきます。
私達もカモシカに続いて草滑りという場所を一気に下ります。気がつくと、浅間山と外輪山の間のくぼみに入っていました。やっと浅間山の本体にたどり着いたのです。 浅間山は活火山だけあって、生えているのは、燃え残りのようにオレンジ色に枯れたイタドリの葉だけ。後は砂と石の世界です。
「映画の撮影地にでもなりそうな場所だね」 「俺ならSFを撮るな」
グランドキャニオンのような外輪山の崖を左手に、右手には、赤と黄に染まった紅葉の嬬恋村が一望できます。 道の途中には、誰が積み上げたのか、たくさんのケルンが道しるべとなっていました。
細かい軽石は、いつしかイノシシサイズの大きい石になり、風も強くなってきます。
その時。 ぜいぜい言いながら見上げた斜面に、何か巨大な物体が現れました。遠くから見ても大きいその物体は、近づくにつれ、異様なまでの巨大さになってゆきます。 遠近法を無視したこの巨大な岩が100トン岩にちがいありません。 100トン岩は、石斧でたたき割ったかのように表面がツルツルした立方体で、モアイ像のように嬬恋村方面を見下ろす形でそびえ立っていました。
「このスイッチはとても押せない・・・」
仕方がないので、寄りかかって写真を撮りました。 それにしても、こんなに巨大なものが、火口から飛び出してくる噴火のエネルギーというのはすごいものです。 人知を越えたエネルギーと気が遠くなるほどの時間が、美しい山や谷を作ったのだろうと思うと、この美しい風景を見ている今の自分がとても恵まれた存在に思えてきます。
ふと風の流れが変わりました。 山頂を見上げると、それまで反対側に流れていた噴煙が、こっちにやってくるではないですか。
「・・・やはり押してはいけないスイッチを押してしまったのか」
空気の中に、硫黄の匂いが混じり、肺の中に「黒酢」の原液を飲んでしまったときのような刺激が降りてきました。
「これはやばい・・・撤退!」
上着の袖で口と鼻を押さえながら、私達は一目散に山を下りたのでした。
数日後、 あさまやまスイッチ登山隊の一人は風邪で高熱を出して寝込み、もう一人は、
「俺は風邪なんかひいてねぇ!」
と、ごほごほ咳をしながら無理やり働いています。 なぜか、私だけがカエルのようにケロッとしているのです。 これは、私の日頃の行いがよっぽど良いのか、私だけがバカなのかのどっちかです。
恐るべし、あさまやまスイッチ。 それでも、浅間山を見上げる度に、今度は千トン岩のスイッチを押しにいくぞ、とたくらむ私でした。
神様の避暑地
「ジュラシックパークに出てくるような、滝があるんです」 と、ご近所のIさんから、その滝の事を聞いたのは、半年ほど前のことでした。 北軽井沢から約1時間ちょっと。須坂にある「米子大瀑布」を、先日やっと訪れる事ができました。
山々の間を縫って、細い山道を車で上ってゆきます。 一つカーブを曲がる毎に、つのる秘境感にわくわくしてきました。
新緑が、目が覚めるようなあざやかさです。 江戸時代の人達は、「四十八茶と百ねず」と言って、48種類の茶色と100種類のねずみ色を識別していたそうですが、ここは、山一つで「百緑」くらいの色わけができるのではないかと思うほど、緑色のバリエーションが豊かなのです。
登山口に到着すると、須坂の観光協会の方がニコニコして待っていました。 今日は、浅間山ミュージアムのメンバー8人を案内してくれます。 コースの途中にある、米子不動尊の奥の院について解説してくれました。
「毎年6月14日に、山の下の瀧山不動尊から、山の上の奥の院に不動明王を運ぶ『お山登り』の儀式があります。9月14日になると、お不動さんは『お山降り』で下のお寺に運ばれるのです。これから行く奥の院は、お不動さんの別荘のようなものですね」
神様が3か月だけ移動するというのは何だか変わっています。 観光協会の方に聞いてみました。
「どうして、夏の間だけお不動さんを移すのですか? 冬の間は訪れる人がいなくて寂しいからですか?」
「いえ、暑いからですね」
「え?」
「夏の間、お不動さんも暑いだろうから、山の上に避暑に連れて行くのです」
避暑に行く神様がいるなんて、初めて知りました。 それにしても、夏は神様も暑いだろうという発想には、びっくりです。なんだか、米子のお不動さんが、近所のご隠居さんの様に思えてきました。
ごうごう流れる川の音と一緒に上流に歩いてゆくと、白いお花畑が広がりました。よく見ると、ほとんどが、一つの茎から、2つの花が咲いています。
「これは、ニリンソウです」
中には花びらのふちに薄紅色がついているものもあり、とても清楚な花です。 見上げれば断崖絶壁、足下にはお花畑。うーん、快適。
途中、観光協会の方が大岩の上を指さしました。
「これは、ほとんどの人が見落としてしまうのですけどね」
よく見ると、岩の上に15センチほどの観音様の像が立っていました。
「ガン封じの観音様なんですよ」
ガン細胞予備軍をやっつける為に、すかさず皆で手を合わせます。
25分ほど、渓流沿いの道を歩くと、神様の別荘、奥の院に到着です。 そこは、木造の古いお寺でした。
「上を見てください」
目をあげると、奥の院を守るように、大きな滝が左右に2本、水けむりを上げながら落下しています。 狛犬や、お稲荷さんの代わりに、奥の院を守っていたのは、滝の姿をした二匹の白龍でした。 神様の別荘は、ずいぶんと風流なところにあるものです。
落差85メートルの不動の滝は、今でも修験者達が滝に打たれる修行の場です。 滝に近づくと、霧となった水滴でちょっとした修験者気分です。日々の煩悩が少しでも清められればいいのですが。 滝のそばに、遭難の碑が建っていました。昭和45年に、道に迷った人が、滝の上から落ちて亡くなったそうです。 あの断崖絶壁から落っこちたなんて、想像するだけで、ぞくぞくしてきます。
次に向かった場所は、米子硫黄鉱山跡です。 瀑布を正面に望む台地が、草原になっていて、今までとはガラッと雰囲気が変わりました。 江戸時代から、昭和35年まで、ここで硫黄が採れたそうで、一時期は1500人もの人が住み、学校や店などもあったそうです。 米子からほど近い、小串鉱山は、廃墟好きな人が見たら喜びそうな工場の跡などが残っていますが、米子鉱山は、削られた山と、どこまでものどかな草原の中に、鉱山の事を紹介する看板が立っているだけで、鉱山の面影はあまりありません。
緑の草原に、2本の白樺。そしてその奥には、絶壁を流れる大瀑布。 滝の周辺に始祖鳥の2.3羽でも飛ばせたら、地球のはじまりを感じさせる風景になったでしょう。
草原には、作業着を着て何事か話し合っている役場の職員風のおじさま達がいらっしゃいました。 こんな風景の中では、おじさま達が、とてつもなく青春しているように見えるから不思議です。
草原を抜け、「奇妙滝」という、名前からして奇妙な滝に向かいます。奇妙滝は、奇妙山から流れ出しているそうで、名前の由来が気になりますね。 この地域は、四阿火山カルデラの中にあるので、四方を山々に囲まれています。 同行の方達が、山を指さして言い合っています。
「あれはネコ岳だね」 「じゃ、隣は?」 「あれはコネコ岳」 「まいごのまいごの?」
子猫ちゃんじゃなくて。 コネコと言っても、「小根子岳」と書きます。 奇妙山だし、コネコ岳だし、神様は暑がりだし、この地域はなんだか変わってます。
奇妙滝は、二又に別れた落差60メートルの滝で、奇妙どころか、実に雄大でカッコイイ滝でした。 時間があれば、奥にある石仏群も見たかったのですが、これは、次回の宿題です。 対岸に、権現滝、不動滝を望む絶景ポイントで、ちょうど12時となりました。 青空も顔を出して、理想的な外ごはん状況です。
「いやー、これは」 「いやいや、いいねぇ」
こんな時はみんな、温泉につかった時のようなコメントになってしまいます。 そして、空の下で食べるおにぎりは、やっぱり格別でした。 1時間前に見かけた草原いたおじさま達が、1時間前の姿のまま、何をするでもなく輪になっています。 その姿が映画の一場面のように小さく見えました。
「米子大瀑布は、紅葉の時期がまた絶景なんですよ」
去年の秋、ここを訪れた方が嬉しそうに教えてくれます。 今は青々としたカエデや広葉樹を見ながら、秋の姿を想像しました。
秋には、また行かねば。 楽しみがまたひとつ増えました。
古い別荘が好き
年期の入った建物が好きです。
ブルーベリー周辺は、別荘地なので、様々な古さの、いろんな形の家があります。 家というのは恐ろしいもので、人が住まなくなると、途端に荒れ始めます。 人気のない家というのは、なんとなく分かるものです。 手入れもされず、持ち主がほったらかしのままの家は、だんだんと朽ちてゆき、殺気までおびてくるように感じられます。
けれど、人気はないけれど、昔は、持ち主が愛情をかけて住んでいたのだろうな、と思わせる家もたくさんあって、そんな家は、古くなっても周りの景色に溶け込んでいます。 庭の木や花は、春になれば勝手に花や新芽をつけるので、5月にもなれば、人の気配とはまた違った賑やかさがあるのです。
小川の流れる音と、野鳥の声が大きくなったら、散歩にはベストシーズンです。 まぁ、どの時期でもこのあたりの散歩は気持ちいいのですが、牧草と新芽が青々として、水仙やレンギョウが鮮やかな黄色を添えるこの季節の散歩は格別なものがあります。
ブルーベリーから、国道146号に出る2キロほどの道を歩きました。
このあたりで一番古い別荘地は、一匡村です。 大正時代に大学の教授達が住み始めた別荘地で、今でも別荘地はきちんと手入れされ、連休には、庭に椅子を出してくつろぐ優雅な人達を見かけます。
一匡村の別荘も建て替えが進んでいるようですが、まだ、古い別荘も数件残っています。
古いかどうかは、窓ガラスを見ると分かります。 今のガラスは、何の凹凸もなく、表面が真っ平らですが、古いガラスは、表面が少し波打っています。 それが、映りこむ外の景色をぼやかして、何ともいえない味わいなのです。 この見分け方は、ブルーベリーに泊まりに来た骨董品屋のおじさんに教わったのですが、それ以来、古いガラスを見つけると嬉しくなってしまいます。
この別荘の窓に、木の枝がゆがんで映っているのが分かりますか?
家の前には鳥の巣箱がありました。
さらに進むと、牧草地と浅間山の風景が素晴らしい場所を通り過ぎます。
この場所は、他府県ナンバーの車が必ずカメラを構えている場所です。 もっと牧草が伸びたら、牛の為に牧草を刈り取るのですが、刈り取られた牧草地からは、ふんわりと甘い香りがするのです。
途中、憧れの庭を持つ家があります。
ここは、湧き水がある池があり、睡蓮が浮かんでいて、池の周りには様々な花が咲いて別天地のような庭です。
こんな庭のある家に住んだら、毎日どこにも行かなくても幸せかもしれません。 今盛りのシャクナゲが見事でした。
そこも通り過ぎると、教会のような三角屋根の別荘がありました。
時々、門のある別荘を見かけます。 北軽井沢のような、土地が広くて、あまり区切られていない場所では、門の意味はあまりなさそうです。 が、役に立たないけど、「門」というたたずまいが好きです。この奧には何か特別な物がありそうな気がするのです。 門の他にも、役に立たないけど、「橋」というのもあって、これもまた風情があって好きです。
ひっそりとした庭に、レンギョウが鮮やかな黄色で咲いていました。
冬が長い分、この季節は、めまぐるしく植物が育っていきます。 はじめは短かったタンポポが、今では周りの草と高さを競い合って、長く伸びています。 これは、ブルーベリーの庭にあったタンポポです。写真で分かりますか?
タンポポは、機械の下の日陰から生えていて、太陽を求めて伸びるうちに、とうとうチューリップと同じ高さになってしまったのです。植物の生命力に驚かされる5月です。私の身長も、少し伸びているかも。
|