嬬恋村日記1
キケンなトウガラシ
今日、いつも行く嬬恋村のスーパー「サンエイ」に行った所、ご近所のエスティバン・クラブというペンションの方が、お店を出店していました。エスティバン・クラブは、バリ島をテーマにしています。軽井沢でバリの雰囲気が味わえる唯一のペンションということで、人気の宿です。 売っているものは、バリ島のお料理。奥様の手作りだそうです。バリ料理は食べた事がなかったのですが、アチャールというバリ風のお漬け物を買ってみました。
キュウリや、大根などが、お酢とターメリックに浸かっていて、さくさくとおいしい。初めて食べる味です。その中に、一本の赤い唐辛子が入っていました。
なんとなく、それをかじってみたのですが、5秒後に、ものすごい辛さが来ました。辛いというより、痛い。唐辛子をかじっただけなのに、口に水を含んでいないと舌が痛くてしょうがないのです。 涙目になりながら、約10分、唐辛子の攻撃に耐えたのでした。
世の中にこんなに辛い物があったのですね。 インターネットで見てみると、インドネシア料理には、唐辛子を使った物が多いらしく、料理をするために唐辛子を刻んだだけで手が腫れる、と書いてありました。 唐辛子の威力はすごいものですね。 そういえば、マタギの人が持っている熊スプレーは唐辛子エキスだったような。凶器になりますよ。これは。
このゴールデンウィークに北軽井沢周辺にお出かけの皆さん、サンエイでバリ料理を試してみてはいかがでしょう? 唐辛子はキケンですが、新しい味に出会えますよ。
トトロリス出現
Yさんは、1年前に、アメリカから嬬恋村に移住した人です。 日本人であるYさんは、アメリカで「盆栽ショップ」を立ち上げて、永住権を取り、10年間アメリカで過ごしたとても素敵な女性です。
北軽井沢近辺で土地を探しているとき、うちに泊まりに来てくれた縁で、今もお付き合いさせていただいています。
彼女は、浅間山のふもとの別荘地の端に、暖炉つきの、こじんまりとした家を買い、庭にエサ台を作ってひまわりの種を置きました。この一冬で、Yさんの庭には野鳥やら、リスやら、たくさんの常連さんがついた様です。 月1万円のヒマワリ代の代わりに、Yさんは暖かい部屋の中にいながら、たくさんの野鳥の写真が撮れるのです。
先日、持ってきてくれた写真の一枚に、私は釘付けになりました。
灰色の二ホンリスがヒマワリの種を食べている写真でした。 その色といい、太めの体型といい、尖った耳といい、トトロにそっくりです。
「これは・・・トトロリスですね」
勝手に命名しました。
「この子はまだ子供みたいね。よく、3匹で来て追いかけっこしてるわ」
ほんとに、羨ましいYさんの庭なのでした。 Yさんの写真に写っている野鳥も、リスも、図鑑やら剥製で見るような顔ではなくて、リラックスした顔で写っています。 写真は、撮っている人そのものを映し出す、と言いますが、Yさんの写真からは、自然に対する愛情が伝わってくるようです。 どうして、日本に帰ろうという気持ちになったのですか? と聞いたところ、
「私に必要なのは、日本の自然だと分かったの」
とのことです。そのYさんは、嬬恋村の、それも浅間山のかなり近くを終の棲家に選びました。 同じ所に住んでいても、見えている物は、人によって違うのかもしれないと思います。 私の見えていないトトロリスの姿を見せてくれたYさんに感謝です。
6周年のブルーベリー
先日、うちの宿、北軽井沢ブルーベリーYGHが6周年を迎えました! 2000年の7月7日にオープンしたので、6周年には少し早いですが、7月1日に、開所記念パーティーを開きました。 ケーキに載っているチョコレートには
「since
2000 6th」
と書いたつもりですが、文字がゆがむ・・・。
あっという間の6年でした。と、しみじみしている間もなく、私はケーキのデコレーションやら、ダンナの実家から送られてきた空豆を焼いたり、トウモロコシをゆでたり、大忙しです。
嬬恋の野菜もいろいろなものが出そろってきました。トウモロコシは今シーズン初のお目見えです。 嬬恋のトウモロコシには、知る人ぞ知るとっておきのもろこしがあります。 「味来(みらい)」という品種で、これは、生で食べられるトウモロコシなのです。生でかじるとシャリシャリしていて、甘く、野菜というより、フルーツを食べている感覚です。 ゆでる場合は、皮付きのまま、たっぷりの塩を入れたお湯でぐらぐらゆでるとおいしいのです。
そら豆もまた、皮付きのまま魚網にのせて焼きます。 そら豆というのは不思議な感じがしますね。
巨大なさやの中の豆は、ふかふかの綿のような皮に厳重に包まれています。 「そら豆のお布団」 という絵本がありましたが、確かに羽毛の寝袋にくるまっているようです。そら豆をさやごと魚網で焼くと、そのお布団部分が、蒸し器の役目をして美味しく火が通るのです。 皮は、素材を守る為だけでなく、おいしくする役にも立っているものなのですね。
あつあつのそら豆に、マヨネーズをつけて食べます。 素朴な豆の味に、まったり味のマヨネーズが良く合います。
残りのそら豆は、「そら豆の冷たいスープ」にしました。 うっすら優しい緑色のスープに、生クリームとパセリをのせます。 外見と同じように、優しい味わいのスープです。
お客さんからの差し入れのワインやお菓子も出て来て、6周年パーティーは、パーティーというより、収穫祭の雰囲気で過ぎてゆきました。 旬が野菜の調味料になるこの時期は、おいしい楽しみがたくさんです。
ロウ石山の溶鉱炉
人の好みはそれぞれですが、「廃墟好き」という人達がいますね。 閉鎖された鉱山が好きって人もいれば、地方の観光ホテルがいいっていう人もいる。 傾きかけてる観覧車があるような遊園地がいいんだという人もいれば、廃線跡の電車の枕木がたまらないと言う人もいらっしゃる。
かく言う私も、廃墟好きです。ええ。
紅葉で深紅にそまった山と出会った時と同じくらい、素敵な廃墟に出会った時は心がときめきます。
廃墟というのは、言ってみれば巨大なゴミです。 もういらないのにそこにある。雨風にさらされるままになって屋根は抜け、畳はへこみ、ペンキははがれてくる。 それでは、林の中に捨てられているテレビや冷蔵庫と一緒かというと、ゴミはゴミでも格が違います。 不法投棄されたテレビなんかには、品がないのですね。
「捨てるのにもお金かかるし、家の中に置いとくのも邪魔だし、誰もいないから、林のなか捨てちゃえ」
という持ち主の気持ちが残っちゃってる。
じゃ、品の良いゴミというのがあるのかと言うと、この間読んだ本にはうなりましたよ。 ある時、男が、田舎の農家へ訪ねていった。 縁側では、おばあさんが、穴だらけでぼろぼろの足袋を繕っている。
「さすがに、そこまでぼろぼろじゃ、繕っても履けないでしょう」
と、男が言うと、
「捨てようと思って繕っているのです。ずいぶん足袋にお世話になったから、ぼろぼろのまま捨てるんじゃ申し訳なくて」
と、おばあさんは、言ったそうです。 品のある人ってこういうことなんだ、と思いました。
ゴミはゴミでも、おばあさんに繕われた足袋は、不法投棄のテレビとは雲泥の差があります。
で、廃墟は、品がある方のゴミです。
たくさんの人が働いた鉱山や、家族で楽しい時間を過ごした遊園地や、町、鉄道、そういう物には、人の気が残っているように感じます。 廃墟は捨てられた物というより、忘れられた物です。 人の気配を残しながら、自然に帰って行く廃墟の姿は、人間の姿にもあてはまるようで、哀しいような、美しさがあるのです。
個人的に、心ときめく廃墟には、3つの共通点があります。
1つ目は、廃墟になっている建造物そのものが美しいこと。
古い建物には、今の時代では考えられないほど人の手がかかっているものがあります。 旧碓氷峠沿いの眼鏡橋などがそうです。赤レンガを200万個も積み上げて作ったという橋には、今の建物にはない味わいがあります。
2つ目は、建造物が、その場所や、歴史に関わっていること。 今は忘れられた廃墟でも、その建物が活躍していた間は、村の中心をになっていたとか、多くの人が住んでいたような所は、何かしら神聖な感じが残っています。 壁一面に落書きをされるとか、むやみに窓ガラスを割られるということにはなりません。
3つ目は、これが廃墟マニアを生み出す原動力ともなっているのではないかと思うのですが、
「自分しか知らない」
と言うことです。
人々に忘れられている所に美を発見する廃墟鑑賞は、知っている人が少なければ少ないほど、自分だけの特別の意味を持ちます。 なんとなく、新人アイドルに熱を上げているオタクっぽく聞こえなくもないですが、 「他の人には分からなくても、自分だけは、良いと分かっている」 と言える物を、たくさん持っているほど、生活は楽しくなるような気がするのです。
嬬恋村に、その3つを満たす廃墟があったのです。 村に住むIさんに聞くまで、私もその存在は全く知りませんでした。村の人でも知っている人はほとんどいないでしょう。
それは、ロウ石鉱炉です。 子供の頃、道路に絵を描いたり、丸を書いて石蹴りをした経験があるかと思いますが、あの、チョーク代わりの石がロウ石です。 干俣という集落の奥に、ロウ石の採れる山があり、近くには、ロウ石を焼いた溶鉱炉が残っているというのです。
ロウ石鉱炉までの道のりは、廃墟にふさわしく、荒れていました。 農家がぽつぽつとある集落を抜け、橋を渡り、山葡萄のつるをかき分けながら、川沿いの道を進みます。 振りかえると、さっき渡ってきた小さな木の橋が、小さく見えました。 葡萄のつるに手足を取られながら荒っぽい自然の中に身を置いていると、橋が現実と非現実との結界のように見えてきます。 けれど、もう橋を渡ってしまったからには、進むしかありません。
突然、2本の溶鉱炉が現れました。 溶鉱炉は、威圧されるほど大きく、茶色のレンガを積み上げて作ってありました。 ビール瓶を思わせるやわらかな曲線でできた2本の棟には、小さな入り口がついています。
「これがロウ石だよ」
アーチ型の入り口に落ちている黒っぽい石を拾い上げてIさんが言いました。
「ロウ石って何に使ったのですか?」 「耐火レンガとか、金属アルミニウムの原料になるんだ」
ロウ石の採掘は昭和17年に始まり、国から、軍事産業の指定を受けた時には、250人もの従業員が働いていました。 村で3番目に電話を引いたのもここなのだそうです。 また、三交代、24時間かけて焼きあがったロウ石を、選別し、運んだのは、女性達でした。
「昔は、ここで働いている人の為の劇場があったんだって」
こんな僻地に劇場とは、驚きました。 産業が起き、人が集まって、集落ができ、このロウ石鉱炉は、干俣地区のシンボルだったに違いありません。
しかし、ロウ石鉱炉に併設された工場が、火事で焼けてしまってから、事態は変わりました。 火事に合わせるかのように、ロウ石山の鉱脈がつきてきたのです。 結局、鉱山はそのまま閉山となり、ロウ石鉱炉だけが森に残されました。 集まった人々も、どこか別の新天地を求めて去ってゆきました。 ロウ石鉱炉だけが、深い森の中でひっそりとたたずんでいます。
この2体のロウ石高炉、そっくりのようでいて、どこか違うような雰囲気があります。これを作ったのは、今の北関東タイルだそうですが、1基は祖父が作り、もう1基は、当時20才の孫が作ったそうです。おじいちゃんと孫がそれぞれに作った溶鉱炉なんだと思うと、溶鉱炉が余計に美しく、清々しく感じられます。
このロウ石鉱炉を、自分だけしか知らない廃墟として、とっておきたい気持ちもあります。 けれど最近、この美しい溶鉱炉を自然に還してしまうのはもったいない。実にもったいない。 と思う気持ちの方が優勢になってきました。 もっとたくさんの人に知ってもらえば、廃墟から、文化財になるかもしれない、と思う私は、やはり廃墟マニアにはなりきれないようです。
今日は愛妻の日
1月31日は「愛妻の日」です。 1をアルファベットのIに、31を「さい」に置き換えて「愛妻」。 この記念日を作ったのは、嬬恋村の 「愛妻家聖地委員会」です。
そもそも、嬬恋という名前は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が亡き妻を偲んで 「吾が妻恋し」 と、叫んだ、という伝説から来ています。
「愛」のつく地名はあっても、全国で、「恋」のつく地名はここ嬬恋村だけなのだそうです。
そんないわれもあり、愛妻家協会の発足式パーティーが、1月31日に行われました。
● 嬬恋村愛妻家聖地委員会HPパーティーの前日、集まった人達の前に並べられたのは、大量の大根、ジャガイモ、そしてオレンジでした。 さて、これで何を作るのでしょう?
「はい、そのスプーンでオレンジをくりぬいて」
ほうほう。
「縁はハサミでギザギザにね」
はいはい。
「で、このロウソクを入れると・・・」
オレンジキャンドルのできあがりです。 大根は、かぐや姫サイズの竹型にくりぬかれ、ジャガイモはアルミ箔で下半分を包まれて、実においしそう。そのままオーブンに入れたくなります。
キャンドルアーティストの小泉さんが作り出すキャンドルは、どれも遊び心が満載な上、実にロマンチックな光をはなつという不思議な魅力があります。
くりぬいた大根の中身は、ペンションの奥様達で持ち帰り、翌日、漬け物や酢の物に変身させて持ってくる事になりました。 私は浅漬けの係りです。
今回のイベントでは、浅漬け以外にもう一つ、お役目をいただきました。
愛妻家協会には、愛妻のテーマソングまであるのです。
「あがつまはや」
既にCD化して絶賛発売中。 歌手のきんばらしげゆきさんは、この曲で、紅白出場も狙っているそうです。 実現したあかつきには、私も「嬬恋村の皆さん」というテロップ付きで、NHKホールから目一杯手をふりますからね。 今回、嬉しいことに、きんばらさんと、バンドの方々が、発足式パーティに参加してくれる事になったのです。
パーティの最後には、参加者全員で「あがつまはや」を歌って、志気を高めましょう。つきましては、奥さん、高校の頃、ギターをやっていたそうじゃないですか。こういうのは、地元の人が参加するのがいいんですよ。いや、コードは簡単にしますから、ねっ!!!
と、いう小泉さんのお誘いのもと、私もバンドの一員に加わって、ギターを弾くことになったのでした。 人前で演奏するなんて、数えてみれば15年ぶり。 それもプロの方達と・・・。 「嬉しい」が半分、「ひぇーっ」が半分のまま、当日を迎えました。
会場のホテルでは、前日に作った野菜・果物キャンドルのデコレーションが行われていました。 銀のお盆の上にオレンジのキャンドルが並べられ、その周りを生のヤドリギや松ぼっくり、矢車菊などが囲みます。 これらの植物は、地元で喫茶店を営む奥様が持ってきてくれたのですが、花もない真冬で、よくこれだけたくさんの植物を集めたものです。
聞けば、奥様は、万座鹿沢口の駅長さんに許可をもらい、駅にあるシラカバによじ登ってヤドリギを採ってきたのだそうです。 西洋では、クリスマスにヤドリギの枝をつるします。その下では、キスをしてもお咎めなし、という習わしがあるそうで、愛妻にはぴったりの木ですね。
金色の実をつけたモスグリーンのヤドリギが、キャンドルの炎にとけ込んで、テーブルの上に冬の森が現れたようです。
キャンドルは室内だけではありません。 ホテルの中庭から入り口へ向かう小道沿いには、新たなキャンドルワールドが出現しつつありました。 ガラスのコップに入ったキャンドルの上に、フクロウ、キツネ、カエルの形に切り抜いた紙をかぶせてゆきます。
ここにも、愛妻のテーマがありました。 それぞれの動物は、大小1組づつ、つまり、夫婦のキャンドルになっているのです。
降り始めた粉雪の中で、動物達が辺りをほのかに照らし出しました。 雪と紙とロウソク、たったそれだけで幻想空間を作り出してしまう小泉さんのセンスにうなってしまいます。 そして、そういう演出を、職業も年齢も様々な人達みんなで作ってゆくのが楽しいのです。
「あがつまはや」のプロモーションビデオで、パーティーは始まりました。
愛妻家協会の発起人、山名さんは、
「妻というもっとも身近な他人を大切にしよう」
と、おっしゃいました。そこに、家庭寒冷化現象をくい止める鍵があると言うのです。
「もっとも身近な他人」
言われて見れば確かにその通りです。 離婚率や、少子化が問題になっている今、「愛妻」は、あらためて夫婦を見なおしてみる良いきっかけになりそうです。
テーマが時代に合ったのか、マスコミの賛同も多く、愛妻家協会の活動は、新聞、ラジオ、雑誌など様々なメディアに取り上げられました。
皆さんのスピーチを拝聴する間に、ごちそうへ対する意欲もお腹の減り具合も、万事整いました。 乾杯の合図でごちそう解禁です。
ローストビーフやら、ピザやら、メープルシロップのかかった絶品プディングやら、めくるめく幸せです。 隣のテーブルには、村の人達が作った心づくしの手料理が並んでいます。 さっそく、愛妻心を発揮して奥様に料理をよそってあげるダンナ様も現れました。
宴たけなわの頃、きんばらとしゆきさんのコンサートが始まりました。 生演奏の迫力と、声の良さに、しらふで酔いしれてしまった私でした。
しかし、いつまでも酔っぱらっているわけにも行きません。最後には、私も演奏に加わるのです。 なんだか緊張してきました。
しかし、バンドで演奏するということは、俳優の役所幸司さんに告白されるのと同じくらい、私にとってはありえない夢でした。それがひょんなことから、かなうのです。嬉しさと緊張で、心臓がばくばくしています。
とうとう出番がやってきました。 キャンドルアーティストの小泉さんも、ギターを抱えてバンドに加わります。 作曲家の冬野さん、セクシーボイスのきんばらさん、笑顔が素敵な加藤さん、皆さん優しくシロウトの私を迎えてくれました。
演じる側に身を置かせてもらったわずかな時間は、私にとって至福の時でした。 彼らの音楽に、体の細胞ひとつひとつが、振動してゆきます。
これがプロの音楽なんだ。
体で、心の奥底で、実感しました。 そこに、参加者の人達の歌が加わり、会場が一つになってゆきます。 やはり、音楽の力はすごい。
「愛妻」 このちょっと照れくさい言葉に、たくさんの人が集まり、力を出し合って、今回のパーティーになりました。
愛妻のとらえ方、実行の仕方は人それぞれですが、愛妻は、夫婦だけではなく、人と人とを結びつける原動力になるのではないか、そんな予感を感じた一日でした。
ご先祖からの出題
浅間山のふもとに住む者ならば、200年前に起こった浅間山の大噴火は、牛でも知っている事実です。 しかし、どれぐらい知っているか、ということになると、言葉に詰まります。 噴火によって、私の住んでいる鎌原村が溶岩で埋め尽くされ、鎌原観音堂に駆け上った人だけが生き残った。
そこまでは知っていますが、
「浅間山はどうして噴火したの?」 「溶岩って何?」
などという質問にはとても答えられません。 テレビというものの存在は知っていて、テレビを見て楽しんだりもするのですが、どうしてテレビが映るのかは知らないという感じです。
それならば、もう少しテレビの勉強もしてみましょう、と集まったのは、「浅間山ミュージアム」のメンバー達です。 浅間山を中心とした地域をまるごと博物館にしよう。という企みのもと、地元民を中心に、昨年、結成されました。 先日は、浅間山の噴火について書かれた古文書、「浅間大変覚書」を読む勉強会が行われたのでした。
それにしても、古文書というものは、とっつきにくいものです。 まず、あの続け字がいけない。 どこで区切られているのかも分からない上に、漢字も平仮名も、限りなく一筆書きに近いつながり方をしています。 言い回しも堅苦しく、もちろん挿し絵もなし。 いかにも難しいという雰囲気のせいか、10円コピーで作っているテキストさえ、ずっしりと重く感じられます。 浅間山ミュージアムに関わらなければ、一生出会うことの無かった本でしょう。
しかし、一文一文を声に出して読んでみると、異国語のような連なりの中にも、見知った漢字がちょこちょこ顔をだしているのに気がつきました。 読めることは解る事につながっているようです。 郷土資料館の館長、松島先生の解説を聞いているうちに、岩の塊のように思えた古文書も、草加せんべいくらいの噛みつきやすさに思えてきました。
草加せんべいとなった古文書に、さらにバリバリ噛みついてゆくと、意外な事に気がつきました。 この作者の表現力がなかなかおもしろいのです。 大災害が起こった日は、
「天気が良くて、それぞれが、蔵に諸道具を入れると、みんな蔵に入って昼寝していた」
と、書かれています。そして村人達は、
「油断真最中だった」
その時に、溶岩が押し寄せてきたとあります。 油断の真っ最中に災害が起こったというのは、緊迫感がありますね。 常に油断の真っ最中である私にはよく分かる表現でした。油断してる時に思いがけない事が起こると、猫でも飛び上がりますから。
村人達が動揺する姿も、なかなかリアルに描かれています。
「村人達が騒ぐ事は狂乱のごとし。物を買うやら、もらうやら、かりるやら、食よ茶よと泣き叫び、逃げまどい、七転八起の有様」
災害に見舞われた村の様子を書いているのですが、村一つがそっくり無くなった大惨事を描いている割には、なんとなくほのぼのした雰囲気を感じてしまったのは私だけでしょうか。 もし、これが原爆の描写だったら、人の死に方の悲惨さとか、焼け野原の町などが出てくるでしょう。 災害の直後に、食べ物の事とか、ましてや「お茶」の事なんかは出てこないのではないかと思うのです。
私の想像では、この作者は清少納言のような、知識のあるおばちゃんが書いたものではなかろうか、という気がするのですが。 この生活感、どうも主婦の匂いがします。
村人が、
「ただ心配で浅間山の方ばかり見ていた」
というくだりでは、一昨年の九月に浅間山の噴火を初体験した自分とシンクロしてしまい、
「ああ、不安だったんだね、何も手に付かなかったんだよね」
と、身にしみて感じました。
天明三年の浅間山の噴火は、何しろ、フランス革命の原因となったという説まであるくらいですから、様々な記録が書き残されています。 私達が読んだ「浅間大変覚書」は、その中でも有名な本なのですが、作者はわかっていません。 その上、原本は残っていないのです。現存するのは、原本を誰かが書き写した写生本で、私達が使ったテキストは、その孫孫々コピーということになります。
私は歴史にうといので、興味の対象が史実とはあまり関係のない方に向かってしまいます。 ある時、浅間の噴火に関するおもしろい話と出会いました。
江戸時代中期の狂歌師、大田蜀山人という人が書いた「半日閑話」という随筆集の中に、「浅間噴火夜話」という話が出て来ます。これは、蜀山人が浅間山付近の地元民から聞いた話だそうです。この話は以前、私のブログで、 「嬬恋村・横井庄一さん伝説」として書いていますが、ここでも「浅間噴火夜話」を紹介したいと思います。
ある夏の日、浅間山に近い村の一農夫が、井戸を掘ろうとして、一丈あまりも深く掘っていたところ、瓦が出て来た。
「こんな深いところに瓦があるのは不思議だわい」
と、思った農夫がさらに掘り進んだところ、今度は、人家の屋根らしいものが現れた。 壊してみると、下には居間らしい所があり、暗がりでよく見えぬが、人影らしいものが動いている。たいまつを照らしてよくよく見ると、老人が二人いる。 農夫はびっくりして、どうしてこんな所にいるのかわけを尋ねてみた。
「何年前か知らないが、浅間山が噴火した時に、私たち一家六人は土蔵に隠れていた。が、山が崩れて地中に埋められてしまった。どうしようもなく、横へ穴を掘って出ようとしたが、とうてい及ばず、四人の者はついにこの中で死んでしまった。われわれ二人は、倉庫の米三千俵と、酒三千樽を飲み尽くし、その上で天命を待とうと覚悟していたところ、今日図らずも再びこの世に出ることができました。まことに生涯のよろこびである」
驚いた農夫は浅間山の噴火の年数を調べてみたところ、ちょうど三十三年前のことだった。 農夫が、さっそく二人を引き上げようとしたところ二人が口をそろえて、
「長い間を暗闇の世界で暮らしてきた身が、いますぐ明るい世界へ出れば、風に当たって死ぬかもしれない。明るい世界に慣れた上で引き上げてもらいたい」
と、頼むので、穴の口をだんだん大きくして、少しばかり日光を差し入れて、食物などを与えて養生させておいたそうである。
こんなお話です。 人間が、33年間も溶岩の下で生きていたという話は、まぁ、誰がどう見ても作り話です。
その上、「浅間噴火夜話」の書き手である大田蜀山人の経歴がまたあやしい。 この人は、幕府に仕える下級武士という顔と、世の中や政府を批判した狂歌作家という二つの顔を持っていました。 言ってみれば、昼は真面目な地方公務員。夜は狂歌で世の中を斬りまくる、ギター侍のような人だったのです。
その他にも、突撃レポーターのような事もしていて、日本ではじめてコーヒーを飲み、「まずい」という主旨の体験レポートまで書いています。 吉原が火事になった時には、廓の焼け跡から竜の頭蓋骨が出て来た、などと書き残しています。それも、ヘタウマ風の竜のイラストまでつけて。
そんな蜀山人が書いた話ですから、「浅間噴火夜話」を読んだ後世の人も、おもしろいことを考えるものだな、くらいの受け止め方をしていたのではないでしょうか。
松島先生は、「浅間大変覚書」から、二つのことが分かる、と言います。 一つは、午前11時に浅間山から出た泥流が、晩には銚子に達したということから、「熱泥流の速度は速かった」ということ。 もう一つは、鎌原村を埋め尽くした泥流から百日も煙がたっていた、ということから、「泥流は熱かった」ということです。 もし、それが正しければ、熱い泥流の下で家屋敷などは焼けてしまったでしょうから、大田蜀山人が書き残した、泥流の下で人が生きていたという話は、ますます作り話めいてきます。
しかし、昭和50年に鎌原村で行われた発掘調査で、新たな発見がありました。 泥流の下から、ほとんど焼けずに残っていた瓦や、壺、生活用品などが見つかったのです。 鎌原観音堂は、噴火直後、観音堂の高台に逃げた村人90人だけが助かったというノアの箱船のような場所です。 その観音堂の階段から、逃げ遅れた二人の女性の遺体が発見されました。それも、髪の毛まで残っていたというから、ミイラの状態ですね。 その状態から、鎌原村を埋め尽くした泥流は、高熱ではなかったということが分かります。高熱の火砕流だったら、死体は焼けてしまったでしょうから。 そうなると、多くの人に支持されてきた「浅間大変覚書」よりも、蜀山人の聞き書きの方が、事実に近かったということになります。
松島先生に発掘のお話を聞いた時、トロイの遺跡の話を思い出しました。 ドイツ人のシュリーマンは、周囲の人々に嘲笑されながらも、ギリシャの吟遊詩人ホメロスの「イリアッド」の話を信じ続けました。 そして、広大なトロイの遺跡が見つかったのです。
どんな馬鹿馬鹿しいことでも、そこには一片の真実が隠されているかもしれません。 古文書や、言い伝えが、解読を待っている壮大なクロスワードパズルのように思えてきました。
隠れ家レストラン「家庭料理 風見鶏」
今日は、嬬恋村にある隠れ家風のレストランを紹介します。 「風見鶏」という家庭料理のお店です。 場所は、プリンスランド内の教会から北へ向かってしばらく走った所に看板が出ています。 看板に沿って、何度か別荘地を曲がっていくと現れる大きな別荘の建物が「風見鶏」です。 私が行った時は、ちょうどご主人様が外出から帰られたところで、気さくに声をかけてくれました。 一歩中に入ると、ガラス張りの大きな窓全面に、したたるような新緑が見え、大きな絵のようです。別荘地の端にあるため、とても贅沢な眺めになっています。 レストランというより、親戚の別荘に遊びに来たような落ち着く空間です。
ご主人様はプロのスポーツカメラマンだそうです。昭和を代表するカメラマン180人のうちに選ばれ、本の出版記念パーティーからちょうど戻られた所だったのでした。本を見せていただきましたが、ご主人が撮った新体操のコマネチ選手の写真が載っていました。 レストランの壁には、尾瀬の風景写真。もちろんご主人様の作品です。
さて、私はロールキャベツを頼みました。 奥様は、埼玉で18年もレストランを経営されていたそうで、ロールキャベツとビーフシチューはその頃からの看板メニュー。 まずは、サラダが出て来ましたが、このサラダが迫力ありました。 トマトが丸ごと、水菜と新タマネギの上に乗っかっています。それを、さくさくとナイフとフォークで食べるのですが、このキンキンに冷やしたトマトが甘い! トマトに乗った塩とドレッシングも、トマトの甘みを引きだしています。 このサラダ一品だけでもかなりの満足度です。
そして、トマト味のロールキャベツが出て来ました。 ナイフを入れると、とても柔らかくて、ほろほろととろけるような口当たりです。 さすがは18年以上も作り続けてきた味です。体に染み渡るような美味しさというのでしょうか。 奥様はそれまでハーブや、いろいろと変わった料理も作ってきたけれど、今のメニューは基本に戻りつつあると言います。 「やっぱり基本のものが一番おいしいのよね」 私も同感です。目新しくはないものを、おいしく作る事は案外難しい事だと思います。
私も、軽井沢を始め、いろいろなレストランやホテルで食事をいただきました。工夫を凝らした物や、高価な食材を使った物もたくさんありました。 その中で、私が一番すごいと思ったのは、軽井沢で100年の歴史を持つ、万平ホテルのレストランです。ここで出された物は、何一つ奇をてらったり、派手なものはありませんでしたが、普通のものが、ものすごくおいしかったのです。 これが、老舗の実力なんだな、と感心した体験でした。
風見鶏の奥さんの話を聞いて、そのことを思い出しました。 ホームページも作っていないし、インターネットでも紹介されていない、別荘地の奥にひっそりとたたずむレストラン、でもしっかりおいしいものを食べさせてくれるのです。 次は、ビーフシチューを食べに来たいと思います。
家庭料理 風見鶏 住所 群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原プリンスランド空の街44 電話 0279-86-3737 定休日、火・水・木 営業時間 11時30分〜14時 17時〜21時 営業は4月下旬から11月中旬まで GW、8月は無休 昼はランチメニューもあります。1050円〜
夜は予約制のお肉会席です。3990円〜
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